工藤伸一の小説
『ああ無情』を読めなかった夏休み
【第1稿】 2002/09/15 【最終更新日】 2003/02/19

2学期の最後の国語の時間に、中2のクラスメイト全員への夏休みの共通課題として僕らは、 フランスの作家ヴィクトル・ユゴーの名作『ああ無情』の感想文の提出を義務づけられた。 さっそく学校の図書室に借りに行ってみたところ、1冊だけ置かれていたけれど、クラスで一番足の速い黒澤君が『夏休み長期貸出』の手続きを済ませてしまったとの事だった。
 僕は困ってしまった。
 中卒のトラック運転手の父ちゃんと中学中退の母ちゃんに育てられた僕の家には、そんな高尚な本なんてある訳もないし、後は本屋さんで身銭を切って購入するかもしくはどこかから借りて読むしかないわけだが、あいにく僕には本の貸し借りを出来るような仲のいい友人は一人もなく、ここは田舎だから学校の図書室以外に本を借りられる施設もないので、買うしか方法がなくなってしまったわけだ。
 そこで家に帰るなり本を買うためのお金をもらおうと母ちゃんに交渉してみたが、「本だって? 子供のくせに生意気なこと言ってんじゃないよ! 本なんてのは学校の教科書があれば十分だよ! 今日の夕食のおかずを買うのもやっとのこの家に、そんなぜいたくなものを買う余裕があるわけないだろ!」と思った通りのいつもの調子で軽く一蹴されてしまった。勉強のために必要なんだからとさらに頼み込んでみようかとも思ったが、お金の余裕がないって事なら諦めるしかないな。それに母ちゃんはかなりの本嫌いだし。しょうがない。
 だから、万引きする事にした。
 実は万引きはこれまでに何度も経験があって、意外とちょろいもんなのだ。クラスのみんなが持っているゲームボーイも親に買ってもらえなかったので万引きで手に入れたし、家にあるマンガの単行本も全て万引きしたものだ。親には友達からもらったと言ってある。
 もともと万引きを始めたきっかけは、欲しいけど買ってもらえないからというのもあったんだけど、こうして少しでもクラスメイトとの共通の話題を作っておけば僕にも友達が出来るかもしれないとの思いもあってのことだったんだ。
 だけどあいにく僕は無口だし、隣町の中学生と喧嘩して死んだ兄のおさがりのつぎはぎだらけのみすぼらしい制服を着ているし、水道代を節約するように親から言いつけられていて風呂にもたまにしか入らないという事もあって、クラスメイトからは不潔で暗い奴だとしか思われていないか
ら、なかなか友達を作ることができないでいるのだ。
 でも僕は独りでいることが多い分、学校の休憩時間をずっと図書館で過ごしてきていたから、文章を書いたりするのは得意な方なのだ。残念ながら『ああ無情』は読んでなかったのだけれど、カミュやカフカやジュネ、マルキ・ド・サド、乱歩、夢野久作の全集なら全冊読破していた。僕の他にこんなに本を読んでいる奴はクラスに一人もいないから、僕が文学の事をクラスで一番よくわかっていることは明らかだ。理数系は苦手だけど、国語の成績だけは常に上位だから、感想文も絶対にいいものを書ける自信がある。書かないなんて勿体ない。
 万引きに罪悪感を覚えた事もあったけれど、そもそもこれは勉強のための必要悪ともいえる行為だし、貧乏なのは僕が悪いんじゃない。クラスメイトの殆どが何の代償も払わずに当たり前のようにして親にゲームや漫画を買ってもらっているなかで、みんなと同じことが許されない僕がしょうがなく万引きをすることでみんなと同じになろうとして、何が悪いというのだ。
 そんなことを考えながら僕は、これまでにも何度か万引きをしたことのある駅前の本屋に辿り着いた。
 いつものように店番のおっちゃんは居眠りをしている。これなら簡単だ。文芸書の棚の一番上に『ああ無情』と書かれた背表紙を見つけたので、僕は何のためらいもなくその本を手にとってカバンに忍び込ませ、すぐさま店を出た。
 しかしうまくいったなと思ったのもつかのま、急に後ろから「君、ちょっと待ちなさい!」 という大人の野太い声がするとともに、誰かが僕の肩につかみかかってきたのだ。
 僕は冷や汗が流れ出るのを感じながらもできるだけ平静さをよそおって後ろを振り向いた。
 そこにいたのは学校の国語の先生だった。
 心の狼狽をひた隠しながら、「先生、こんにちは。どうしたんですか?」と聞くと、先生は僕の耳元に、こうささやきかけてきたのだ。
「先生はね、君が万引きするところを見てしまったんだよ」
 見られてしまっていてはもう観念するしかないと思い、僕は先生に思いの丈をぶちまけることにした。
「先生、どうかこの件は見逃してください! 僕はどうしても読書感想文で一位をとってクラスのみんなを見返してやりたいんです! でも僕の家は貧乏だから、本を買うお金がないのです!」
 すると先生は、「そうだったのか。……わかった。君の家庭事情を知らずにいた私にも、責任がある。だからといって教師たる私が、生徒の犯罪を見逃すわけにはいかないからな。私がお店の方に事情を説明して、君の代わりに代金を支払ってくるから、本を渡しなさい」 と言って、僕に本を買ってくれた。
 帰り際に先生は、「今日のことは誰にも内緒にしておくから、絶対にいい感想文を書くんだよ。そして君がクラスメイトに尊敬されるような立派な生徒になってくれたら、先生はうれしいぞ」と言い残した。
 僕は「ありがとうございます! 絶対にいい感想文を書いてみせます!」という感謝の言葉を返して、先生と別れた。
 そして帰宅するなり、さっそく本を読みはじめた。
 ところがその時になって僕は、大きな過ちを犯していたことに気が付き、呆然としてしまった。
「……これって原書じゃん」
 そうだったのだ。
 その本は表紙に書かれていた題名こそ日本語だったものの、中身はフランス語だったのだ。
 それにしても先生も国語教師ならそれくらい気がつけよとも思ったが、後の祭りだった。事情を説明すれば後でまた買い直してくれるかもとも考えたが、せっかく親切にしてもらったのに文句を言うのも何だか悪いので、自分で何とかしようと思い、再びさっきの本屋に向かう事にした。
 今度は日本語で書かれているのを確認したうえで万引きをして、本屋を後にしようとした。
 しかし今日は色々あって気が動転していたのか、うっかりして店のおっちゃんが寝ているものと思い込んでしまっていたが、運悪くおっちゃんが起きていたのだ。カバンに本をしまいこんだ直後に、おっちゃんがずっと僕の行動を見ていたことに気が付いた。
 僕は万引きのかどで補導され、本も取りあげられてしまった。
 おまわりさんに問い詰められたあげくにこれまでの万引きの余罪も暴かれてしまい、あまりにも件数が多すぎるので少年院行きの措置をとらざるを得ない、と言われた。おまわりさんに呼ばれてきた父ちゃんに、思い切り拳骨で頭を殴られた。先生も来てくれたが、「君には失望したよ」とあきれられてしまった。
 こうして僕は、読書感想文を書き上げることもできないままに、少年院の中で一夏を過ごす羽目になってしまった。
 ああ無情、とはこんな状態のことを示すのだろうか。   (了)


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