工藤伸一の小説
要約すると The Summing Up
【第1稿】 2002/12/07 【最終更新日】 2002/12/17

 これから語るのは僕の人生のこまぎれな断片の寄せ集めだ。場面は急展開し脈絡もなくとりとめもないものだが、我慢して聞いてもらえるとありがたい。眠くなるかもしれないが、どうか我慢して最後までつきあってくれないか。というわけで、さあ、はじめよう。
 人口8000人の小さな田舎町なのに、近所の食料品店には何故か一缶1万円近い高価なキャビアが売られていた。多分それは、大企業の出張所であるぼくの父の勤め先の工場の父の上司にあたる工場長などのエリートたちが買い求めていたのだろう。ぼくの父は地元出身で定時制高校を卒業後にどうにかそこに就職できた万年平社員という立場に過ぎなかったため給料も多くはなく、僕を含めて4人もの子供を抱えての生活だったので、キャビアだなんて贅沢なものを買うような家庭状況ではなかったが、工場の幹部である社員は東京本社から昇進候補者として辺境の地に出向されていたまさに勝ち組の人達だったのだ。工場長を含む殆どの幹部は東京大学出身で都内に戸建の持ち家を持っている。
 彼らの子供のなかには僕と同級生の子供も多かったので普通に遊んでいたが、彼らの家に遊びに行くたびに、家の中の調度品や家族の着ているものの高級さ、そして度々出される手作りのお菓子と紅茶のおいしさに並みならぬ気品の高さを感じざるを得なかった。
 今にして思えば、あのキャビアが彼らの晩餐の際に食卓に並んでいていてもおかしくはないのだ。当時の僕は雪の降る田舎町で工場長の息子だったりするような同級生とそんなに違わない暮らしをしながら生きているのだと思っていた。しかしそうではなかったのだ。僕がテレビや百科事典で知っているだけの世界の三大珍味のひとつであるキャビアが彼らの食卓には当たり前のように並んでたのである。間違いなくそこには大きな「育ちの違い」があったのだ。
 彼らと一緒に撮ってもらった古い写真がある。一見、似たような服装をしているが、工場長の息子が被っている帽子は本物の巨人軍の帽子で、僕が被っているのはマークが微妙に違うバッタもんの帽子だった。工場長の息子が着ているジャージはアディダスでスニーカーはナイキだが、僕が着ているジャージはアディダスの小文字のディーの部分が小文字のbになっている「アビバス」だなんて珍妙なメーカーのもので、スニーカーもナイキのNがMになっている「マイク」というメーカーの似ても似つかないまがい物だ。通称「スラッシュロゴ」も本物のとは違って2本波打っているので、分かる人が見ればその違いは恥ずかしいほどに明白だった。だけど当時の僕はそんなことは全然、気付きもしなかった。おそらく仲良く遊んでいてくれていた工場長の息子や彼のお母さんは、ぼくの着ているものが偽者だってわかっていたんだろうけれど、それには特に触れずにいてくれた。それはありがたいことではあったけれど、内心、「かわいそう」に思われていていたのだろうと思うと、少々の悔しさも芽生えてくる。
 確かに僕の育ちはいいとは言えなかった。それでも父親は会社一筋で真面目に勤め上げてきていたから、貧乏なほうではあったものの真っ当な家庭ではあった。だから僕はグレることもなくスクスクと成長し、高校時代には生徒会長を務めながらボランティア同好会の部長をしている真面目で家庭的な彼女を作る事も出来た。
その裏には、ぼくの両親が宗教に帰依しているという側面が関与しているのも間違いないだろう。僕自身もその宗教団体の青少年グループの地方の代表として休日は宗教活動に勤しみつつ、全国規模の会合に参加したり教団の新聞に詩を載せたり、新聞に政治的な投書を定期的に行うなどしていて全く見事なものだった。
 しかしそういった活動は同居する親に反抗することで家庭環境が悪くなる事を恐れた僕の仮面的態度によるものに過ぎず、実は物心ついた思春期の始め頃から心の底では宗教への懐疑心を沸々と煮えたぎらせてきていたのだ。学費を援助してもらっていた大学時代も宗教系のサークル代表として毎月のように教団本部に出向くなど旺盛に活動していたが、大学を中退すると同時にそれも全て辞めてしまった。
 いまだに教団の人がたまに家を訪ねてくることがあるが、面会はしないようにしている。親が教団に住所を教えるため、どんなに引越しを繰り返してもきりがないのだ。親に住所を教えずに引っ越せば来なくなるとは思いつつも、さすがにそこまでしてしまうのは気が引けるのでどうしようもない。
 僕の両親以外に育ててくれる人がいないという理由から、いとこのお姉ちゃんが一緒に暮らしていた。正確には彼女の母親は健在ではあったのだが、精神病院に入院しているのだった。そして彼女の父親は、行方不明だった。
 僕には本当の意味での「お姉ちゃん」はいなかったので、彼女の事は「お姉ちゃん」と呼んでいたのだが、幼少の頃にお姉ちゃんの家庭の複雑な事情を理解できていたはずがないので、おそらくしばらくの間はずっと本当にお姉ちゃんなんだと思っていたのかもしれない。しかし彼女は僕の母親の事は「お姉さん」と呼び、父親の事は「お兄さん」と呼んでいたから、わかっていた可能性もある。
 そのお姉ちゃんは僕とは10歳以上離れているので、僕が12歳の頃には20代前半だったが、どういうわけかパンツ一枚で部屋のなかをうろうろしていることがあって目のやり場に困った思い出がある。たまに家に帰るとやはりハタチくらいの妹が、僕の目も気にせずにパンツ一枚で着替えていることもあるので、僕の女性の理想像は必要以上に高くなってしまったんだろうと思う。
普通に若い子のパンツを見たところで別に欲情なんぞ感じられないのである。それもあってか大学時代は結局、一度も彼女を作ることがなかった。
 高校時代には彼女がいたが、あくまでもそれは両想いである事がわかっていたうえに友人らに後押しされてやっとということに過ぎなかった。しかしその恋も長くは続かなかった。理由は僕の性欲の絶倫さからだった。
 最初はプラトニックな関係だったが、次第に僕は会う度ごとに彼女の体を求める野獣と化していった。しかもいたわり深いベッドテクなんてものも持ち合わせていやしない16のガキに過ぎなかったから、それはそれはわがまま極まりない下卑た様相にて彼女の純情を弄び続けていたのだった。当時15歳だった彼女にとって、その仕打ちは荷が重すぎたのだろう。15歳といえばちょうどモーニング娘。の加護ちゃん、あるいはアイボンともいうが、そのくらいのロリロリな年頃である。僕はそんな女の子の体を夜な夜なむさぼり続けていたのだからひどいものだ。ほどなくして僕はわがままが過ぎて彼女にあきれられて振られることとなった。
 その後、3年くらいの間は恋をする事もなく、女を遠ざけて文学その他芸術全般の研鑽に励みつつ大学に入学し、色々あって中退した。
 そしてフリーターになったわけだが、本当にこれまで様々な職種を経験してきた。できるだけやった事のない仕事をやってみたかったということもあってジャンルは多岐に及ぶ。
 学生時代のバイトも含めると、ざっとこんな感じだ。新聞配達、畑仕事、コンビニ店員、テレビゲームのテストプレイヤー、パン工場、引越屋、建築現場の荷揚げ屋、内装・左官の手元、博物館の等身大ジオラマ製作のアシスタント、イベント会場の設営、遊園地ステージのAD、出会い系サイトのサクラ、データセンターの監視、電話によるユーザーサポート、法人向け自己アポ自己営業、テレビ局内の社内ウェブ制作スタッフ、AVスカウトマンなどなど。
 そんな僕が文学にこだわっているのは、ひとえにかっこいいと思うからに過ぎない。漫画家やゲームクリエイターのほうが儲かるだろうとは思いつつも、そうはいっても文学の持つ風格と品のよさ、ダンディズムにはかなわない。僕は右翼というわけではないが、たとえば皇室の人間は漫画やテレビゲームには接しないだろうけれど、文学は読んでいるはずだ。世界文学に精通していれば、どこの国の社交界でも通用する。文学とはそういうものなのだ。
 芸術的に優れた漫画やテレビゲームがあることも認めるが、そうはいっても基本的にはやはりそれらは娯楽に過ぎない。文学は紳士淑女のたしなみとしてどんな階級の人間にも通用する素敵な趣味なのだ。
 本当にメチャクチャで申し訳ない。そもそもこれでは、詩になっていないしな。このままで終わらせるのもひどすぎるので、つい最近の心境を要約した短歌を詠むことで、どうにか締めてみることにしよう。

 悔しさも辛さも全て美しく懐かしき吾が幼年時代

 湯気のなか立ち上りたる懐かしき家族とつつく吾が独り鍋

 読むことと書くことだけを生活の全てとしたき作家志望者

 ニ週間部屋に篭りて雪も見ぬ吾が青春に降り積もる雪

 久々の外気の味のガス臭き世間と吾の距離の遠さよ

 早朝の冷えた空気に溶け込んで消え行く白き吾が息も過去

 現在は過ぎ去ってゆくもの故に常に過去形として語りうるのみ

 返事などないだろうとは知りつつも過ぎ行く「時」を呼び止めてみる   (了)

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